私の世界

社会人になったばかりの人間の日々不定期日記。ブログ名は 泣くな、はらちゃん から

ありふれた夜

飲み会を早めに抜けさせてもらって、それでも当社比遅く帰ってきたら、祖父が脱衣所の扇風機をつけっぱなしにしてくれていた。母が私が風呂を出るまで起きてくれていた。

 

もらった愛をどう返しながら生きていけるだろう。私が私のまま元気に生きる、以外に何か、少しずつ、できたら。

やはり免許でも取ろうかな。

ほんとうの中で生きている

推しのブログを読み返している。推しのブログって本当にありがたい。言葉だから。

 

「みんな自分のほんとうの中で生きているのよね」

という言葉が、彼女の作品世界が持つ裾野の広さのような気がした。

 

私のほんとうってなんだろうな。

口に出したら壊れた時に直視できなさそうだから、やめておいた。

あれが運命なのだから、これも運命なんでしょう

高校時代の友達に会ったら「文フリで日記本出さない?」という話になった。

お世話になっている方の影響もあり、「日記」は私のカバー範囲外のものだと思っていたので、私が?日記を?という感情になった。が、ほぼほぼ二つ返事で引き受けたのは、面白そう、やってみたいという感情がきっと心の奥底にあったから。

あとは、本人はそう思ってないかもだけど私はこの友達に本当に頭が上がらないから。

精神年齢が子供すぎた高校一年生の時から同じような距離感で友達でいて続けてくれること、それから、私の人生で本当に大きく大切な推しになった、パスピエを教えてくれたこと。ベクトルは全然違うけど感謝しかない。

それらの出会いが運命なのだから、これも運命なんだろうな。

 

その友達が前に言っていた、「言葉にしないと生きていけないタイプの人間」に自分が当てはまるかどうか、今ふっと考えてみた。それはきっと、好きなことを職業にするか、という問と似ている。

現時点の私の答えは、「死なないけど、言葉を操っている時が一番自分らしくて、幸せ」だと思う。

幸せに生き続けるために、色んな方法を持ってみてもいいな、というのと、なんか目標があった方が張り合いも出る、というので、負担にならない程度に今後もぼちぼち日記を書いていこうと思う。

 

タイトルの言葉は、今でも暗記している、メンバーの脱退が決まった時のパスピエのボーカル大胡田さんの言葉。出会いと別れに対する捉え方ががん、と180度変わった大事な言葉です。

 

怒り

ポケモンスリープやってたらすぐ寝る日々が続いてあんまり更新できてなかった。蝉はもう全然そこかしこでミンミンしてる。

 

院に行きたいな、表現とか思想を生涯の供としたいなってなんでもっと早く思わなかったんだろう、と思った時に、創作者は怒りを抱えているというツイートを見た。

そこで、私の思想や価値観に怒りが付与されたのが大学四年の時だったからだな、と腑に落ちた。

 

そう生まれただけなのに社会から排除され、殺意を向けられる対象になってしまうことへの怒り。

マジョリティでない、だけなのに、権利を当たり前に享受できないことへの怒り。

その制度変革がよくわからない保身やしがらみ、偏見で、全く進まないことへの怒り。

それらに、自分の名前や顔を晒してまで、言葉と思想で対抗したい、という覚悟。

その覚悟、四年生のはじめは持とうとも思わなかったかも。

 

焦らなくていい、でも絶対、成し遂げよう。

人が死ぬということ

人が死ぬということに関する話なので、辛い人とかは見ないでほしいと思いタイトルにしました。

 

 

 

学生時代、同じコミュニティだった子が亡くなった、らしい。

らしい、じゃなくて、事実なんだけど、証拠も見せられてないし実感湧いてないので、らしい。

学校に連絡がいってるから、証拠はあるんだけど。

 

私は一緒に住んでる家族や祖父母を亡くしたことがないので、あんまり慣れてない方だと思うんだけど、その話を聞いてから今までで思うことをつらつらと。

 

過去は過去のまま、思い出のまま。その人が現実で亡くなったといっても動いたり揺らいだりはしない。

でも、これから先、コミュニティで集まろうってなった時に、その子が来ることは絶対に、二度と、ない。っていうことが、本当に信じられない。

 

グループLINEの既読が絶対1個少ないのとか、ホーム画面とかプロフィールの音楽が変わらないのとか、これはずっと前に別の方が亡くなった時に事実を突きつけるものとして印象に残っていたことだけど、またそうなってしまうのか。

 

記憶は薄れていくものだけど、話したこととか、その時の空気、内容なんて覚えてなくてもいいからくだらないことで腹抱えて笑ったこと、その子がたくさん持ってきてくれた優しさとか、忘れずに生きる。

 

出会った時から今まで、一度も嫌な思いをさせられたことのない子だった。

この文を書いた時に、実感のなかった悲しみの重さが確定したみたいにずしりときた。

出会えて、ありがとう。

蝉、夏、

一週間前、神社近くの並木通りの石畳で、蝉の鳴き声今年初めて聞いた!ってはしゃいでたのに、昨日あたりから近所の木にもじじじじじ、と、そして今日は公園、バス停前の並木、バスに乗ってからもあらゆる緑あるところで、じわじわ、じじじ、と蝉の声がする。次ミンミンがきたらいよいよ夏本番だな。

 

ぼくなつ実況も始まったし(嬉しすぎる)、浴衣、祭り、花火、友達の実家に泊まりと花火、プールの予定も決まったし(これ全部同じ友達と)、既に今年の夏楽しみすぎる。

夏、むしゃぶり尽くすぞ。

 

決意したり、揺らいだり

今更だけど将来の夢、やりたいことを定めた翌日に、自分の命と天秤にかけることだけど大丈夫?と世界から問われてしまった。

 

テレビで堂々とリアルな同性愛を描けるようになるまでは何年かかってしまうんだろう、というのも、自分が研究者としてSNSをやるのならばそこに飛び込んでくる刃があるんだろうとか、でも本当にずっと今の仕事続けていたいのとか、仕事と両立しながら数年ちょっとの勉強時間で大学院に合格できるのだろうかとか、いろんな言葉たちがぐるぐると脳を回すので、今日は帰ったらすぐ寝よう。南條さんのラジオか、推し実況者さんのゼルダの実況でも流しながら。

 

やっぱり私は、考えることで、言葉で、お金を稼いで生きていきたいんだと思う。大学生の間に気づけばよかったのに、周りの規範意識とか、自分の過小評価とかで気づけなかったな、失うまで。

 

私は良くも悪くも飽き性なので、この炎が何年持つか、長い目で見てみようと思う。まずは直近で燃え尽きないうちに、私にできること、やりたいことをしよう。自分の全力をぶつけよう。

 

自分のままで輝いて生きていきたい。人に何かを教えたい。利益を産まなくてもいい。私の知識でアウトプットで誰かが救われてくれたらそれがきっと私の生きる価値。

 

酒入ってるし久々のまとまらない長文だけど、長い目で見るならここが忘れちゃいけないことたちを書いた原点になるのかもね。腐らず頑張って生きろよ、私。